ガラスの歴史

江戸時代のガラス

江戸時代のガラス

江戸時代のガラス

天文12年(1543)、種子島に漂着したポルトガル船を皮切りに、日本は西洋文明と接触を持つようになり、鉄砲の製法を初めとする様々な技術が導入されていきました。それらの技術とともに、ガラス製造技術も伝わり、江戸初期の長崎で日本のガラス工芸は花開きました。その後、ガラス製造技術は、大阪・京都・江戸・佐賀・福岡・薩摩など日本各地に普及し、盛んにガラスが作られるようになりました。

天保5年(1834)に初めて江戸で作られたとされている「切子」が次第に人気を博すと、次いで大阪や薩摩でも作られるようになりました。中でも最も水準の高いガラス器を作ったのは薩摩藩です。とりわけ嘉永4年(1851)に発明した銅赤ガラスによって、薩摩藩は名声を馳せました。

江戸時代に日本で作られていたガラス器は、いずれも素材が鉛ガラスで、技法は吹きガラスでした。鉛が多く含まれているため、その素地は透明にならず、薄い黄緑色や黄色の発色をしています。外国からの舶来品を模倣し、素材的にも技術的にも未熟であった当時の製品は、手に取るだけで壊れてしまいそうなほど薄いものでした。そのため実用品としてよりも、珍奇な趣向品として扱われてきたのではないかと言われています。当時は、成形したばかりの熱いガラス器を少しずつ均等に冷ます「徐冷」という技術が乏しかったため、厚い素地のガラスを作ることができなかったのでした。

また、江戸時代のガラスは『下手物(げてもの)』『際物(きわもの)』と捉えられがちな部分がありますが、これは江戸時代、ガラスが目新しい見せ物興業の一つとして大流行していたからでした。祭りや縁日、盛り場などに娯楽を求めて集まる人々の前で、ガラスの見せ物興行者たちは、ガラス素材を吹いて細工物を作って見せていました。こうした風潮は、ガラスが急速に全国へ普及するきっかけとなりましたが、同時にガラスを『際物(きわもの)』として捉えるイメージを後世に残すことにもなりました。

しかし、江戸のガラス職人が作り出した、壊れそうなほど薄い儚げな風情を持つ色と形のガラスには、日本人の感性や美意識が色濃く表現されています。あるいは同時代の諸外国のガラス器に比しても、際立って個性的な魅力を持つ、他に類を見ない作品として今に残されています。

江戸時代のガラス

明治時代のガラス

明治時代のガラス

明治維新という大きな社会変革によって、日本のガラス事情も一変し、人々の暮らしの中でガラスがより身近な、近代的な生活に欠かせない道具となっていきました。これは明治6年(1873)に、本格的な西洋式のガラス工場「興業社」(後の品川硝子製作所)が東京・品川に設立され、やがて欧米と同じようなソーダガラスの日用器が作られるようになったことに由来します。そこでは日本のガラス産業の技術力向上のため、イギリスから数人の技術者を招くとともに、機械・器具・その他の主要材料が導入されました。しかし、明治時代のガラス製造技術は、全般的に江戸時代の技術を受け継いだものであったので、外国からの技術が民間の零細業者まで浸透し始めるのは明治中期以降のことでした。

明治初期から中期にかけて、官営・民営など多くのガラス会社が設立されましたが、技術の未熟・品質の低さ・高価格・供給過剰などにより長続きするところはあまりありませんでした。一方、これらの工場で技術を磨いた多くの職人たちが後に独立し、日本のガラス工業の基礎を築いていきます。

このような時代の中、ガラスが大活躍したのは燈火器の分野でした。ガラスによる石油ランプが、西欧文化の流入によって日本にもたらされ、それまで行灯や燭台の明かりしか知らなかった人々に大きな驚きを与えました。明治前期に国内で急速に普及した石油ランプは、明治20年代後半から30年代にかけて全盛期を迎え、生活の必需品となっていったのです。油の消費量が一目で分かるガラスの油壷は人気があり、壊れやすいために需要が耐えることがなく、明治のガラス工業を支える主要分野となりました。その後、明治末期に火災の危険がない電灯が出現するとともに、石油ランプの需要は減り、瞬く間に電灯へと移り変わっていきました。

明治時代のガラス

大正時代のガラス

大正時代のガラス

明治後期から大正初期にかけては、ガラス産業がさらに飛躍した時代となりました。この頃ようやく板ガラスの商品化が国内で可能となり、プレス機械の改良や製ビン機械の導入も始まって、ガラス生産額は急増します。さらに、第一次世界大戦の勃発で、日本のガラス産業は世界市場に進出するようになり、ガラスの品質は必然的に向上していきました。

大正時代後半になると、原材料の向上や新しい消色剤の登場で、無色透明なガラスを作ることが可能となり、カットガラスを製造する際の動力として電気が普及したため、大正後期から昭和にかけては見事なカットガラス製品が作られました。

こういったガラスの生産技術が向上する中で特に目を惹くのは、氷コップやコンポートなどの色鮮やかで華やかなガラス器です。これらのガラス器には、被せや色ぼかし、糸巻き、かきあげといった様々な装飾技術が用いられ、技巧を凝らしたバリエーション豊かなものが残されています。中でも「あぶり出し技法」によって施された氷コップや小鉢の文様は、当時の職人たちによる努力とアイディアで、大正期に燦然と花開いたものでした。

大正時代のガラス

道後百年物語
〜道後の文明開化は「ぎやまん」から始まった〜

道後百年物語

今からおよそ百年前の明治27年、当時の道後湯之町町長 伊佐庭如矢(いさにわゆきや)翁が道後に名物を作り、世間の目を道後に向けさせ人を集めようと、三層楼の「道後温泉本館」を建設しました。一歩でも文明開化に近づけるため、その三層楼には当時の人々の憧れだったぎやまんガラスを取り入れ、神の湯の客室をはじめ、各浴室の入り口に赤・青・黄の色ガラスを市松模様にはめ込みました。当時はこれが新式で、そのハイカラ様式の建物に入浴客は驚き、賞賛したそうです。

夜ともなれば、振鷺閣の赤いぎやまんが豪華絢爛、舶来のきらめきを漂わせ、道後の町に希望の灯を燈しました。それから百年以上の歳月が流れた現在でも、振鷺閣の赤いぎやまんの灯が道後の町を見守っています。